取り口は非常に手堅く、若い頃はもろ差しを得意にしていた。自分有利の体勢に持ち込んだら確実に前に出て寄り切ると言うのが勝ちパターン。弱点である腰の脆さ(大鵬には反り腰がなく、上体が反ると残すことが出来なかった。常に前かがみを保ちながら相手を捌く取り口は、この弱点があるためである)を戦術と身体の柔らかさと懐の深さで補っていた。しかし、たまに土俵中央でがっぷり四つになったりすると、格下力士相手でも大相撲になった。大兵であるにも関わらず、巧みな前捌きに代表される緻密な技能を持っていた。また、左差し手を十分に返してから放たれる掬い投げは伝家の宝刀とも言われ、大一番になればなるほど輝きを放った。突っ張りも強く、突っ張ってからの叩き込みも懐の深さゆえによく決まった。だが、左膝を痛めた1968年以後は叩き込みや肩透かしで勝つことが増え批判を浴びている。
このように、基本的には左四つに組みとめての重厚な寄りと強烈な投げが主体のスタイルだが、押し相撲や右四つでも相撲が取れた。つまり、良く言えば究極のオールラウンダーであり、悪く言えば絶対的な型がなかったということである。この点は、右四つの完成された型を持った双葉山とは対照的であり、大鵬以前にはこういった相撲は小兵のやる事で横綱大関にはふさわしくないとみられていた。このため、相撲の豪快さに欠けるとして戦前の双葉山と比べると評価が低くなってしまっている。ただし相手次第で取り口を変える柔軟性を持っていたという点では今でも非常に評価が高い。
師匠である二所ノ関は「型の無いのが大鵬の型」「名人に型なし」と言ってこういった批判を黙らせた。大鵬が勝ち続け、昭和の大横綱へと成長すると、「型の無い」大鵬の相撲は、状況に応じて相撲を変える「自然体」とも評価されるようになった。
その強さと出世の早さゆえか、相撲の天才と呼ばれることも多かったが、本人は「人より努力をしたから強くなった」としてこれを嫌った[2]。大鵬の素質に惚れ込んだ師匠・二所ノ関によって徹底的指導によって鍛え上げられたが、日々のノルマは四股500回鉄砲2000回、兄弟子の瀧見山による激しいぶつかり稽古と、その指導はスパルタ的なものであった。本人は、弟弟子の麒麟児(後の大関・大麒麟)のほうが天才と呼ぶにふさわしいと言っていた。
その体の柔らかさは真綿やスポンジに例えられるほどのものであった。この体がどんな当たりをも受け止め、崩れない大鵬の相撲を可能にしていた。立合いもうまく、また受けて立つ強さもあり、最晩年の1971年3月場所で初挑戦の平幕大雪が一度目の仕切りで立った際は難なく捕まえ勝利している。
幕内最高優勝32回は2009年(平成21年)現在、最多優勝記録である。様々な金字塔を打ち立てたが、特に入幕(1960年)から引退(1971年)までの12年間、毎年必ず最低1回は優勝した記録は「一番破られにくい記録」と言われる。
略歴 [編集]
1956年9月場所 - 本名である納谷の四股名で初土俵、前相撲では三番出世だった。
1959年5月場所 - 新十両。納谷改め大鵬。
1960年1月場所 - 新入幕
1960年11月場所 - 初の幕内最高優勝
1961年1月場所 - 大関昇進
1961年11月場所 - 横綱昇進
1969年9月14日 - 同年5月場所で30回目の優勝を達成したことから、その功績を称え協会より一代年寄を授与される。現役中の一代年寄授与は大鵬と千代の富士(辞退)のみ。
1969年10月25日 - 紺綬褒章受章(以後7回飾版を追受)
1971年1月場所 - 32回目の優勝
1971年5月場所 - 現役引退、一代年寄「大鵬」を襲名
1972年1月 - 大鵬部屋がこの場所から独立。
1976年2月 - 役員改選に伴い、役員待遇に抜擢され、審判部副部長を務める。
1977年2月 - 脳梗塞を患う。
1980年2月 - 役員改選に伴い、理事に昇格し、地方場所部長(名古屋)を務める。
1984年 - 少年時代を過ごした北海道弟子屈町川湯温泉地区に川湯相撲記念館が開館。
1996年2月 - 役員改選に伴い、理事8期を務め退任する。(その後停年まで役員待遇)
2000年6月 - 還暦土俵入り(ただし、四股をふむことができないので立ち姿のみ)を行う。
2004年1月1日 - 娘婿である大嶽元関脇貴闘力が部屋を引き継ぎ、大鵬部屋の歴史に幕を閉じる。部屋の看板は縦書きの「大嶽部屋」と横書きの「大鵬道場」の2枚となる。
2004年11月3日 - 紫綬褒章受章
2005年5月28日 - 日本相撲協会を停年退職
2005年5月29日 - 相撲博物館第5代館長に就任
2008年12月26日 - 相撲博物館第5代館長を勇退。
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成績 [編集]
通算成績:872勝182敗136休 勝率.827
幕内成績:746勝144敗136休 勝率.838(勝率では取り直し制度導入以降1位)
横綱成績:622勝103敗136休 勝率.858(同3位)
幕内最高優勝:32回(歴代1位)
全勝:8回(歴代1位タイ)
同点:2回
連勝数:45(1968年9月場所2日目?1969年3月場所初日。1926年の東西相撲合併以降、歴代3位)
幕内在位:69場所
横綱在位:58場所(歴代3位)
年間最多勝:1960年(66勝24敗)、1961年(71勝19敗)、1962年(77勝13敗)、1963年(81勝9敗)、1964年(69勝11敗10休)、1967年(70勝6敗14休・柏戸と同数)
通算(幕内)連続勝ち越し記録:25場所(歴代9位タイ、当時玉錦に次いで歴代2位・1960年5月場所?1964年5月場所)
三賞:敢闘賞2回、技能賞1回
金星:1個(朝汐)
各段優勝:十両1回(1959年11月場所)、三段目1回(1958年3月場所)