多くのゲルマン人はかなり早い時代からローマ帝国の文化や軍と接触していたが、スカンディアヴィアのほとんどの地域はローマの人々にとって遠く離れた場所であった。そのためローマ人は、スウェーア族(Suiones)とイェーアト族(Geats)について少し触れている以外は、スカンディアヴィアについての記録をほとんど残していない。
しかし、スカンディアヴィアには外部からコイン、食器類、青銅レリーフ、武器など多くの物が持ち込まれていた。特に金属性の物品や土器には明らかにローマ様式のものが見られる。また、3世紀から4世紀にかけての時期には、ルーン文字ももたらされている。
この時代以降の遺物としてデンマーク、シュレスヴィヒやスウェーデン南部から湿地遺体1が多数出土している。それらとともに武器や家庭用品、羊毛の服なども出土しており、シュレースヴィヒ(デンマーク領)のニュダム湿地からは4世紀のものとされる大きな船(ニュダム船)も発見されている。
1世紀から3世紀頃までは、多くの遺体が火葬されることなく埋葬されていた。しかし、火葬の伝統も戻りつつあった。
5世紀から6世紀にかけて、金や銀が広く普及するようになる。この時代、スカンディナヴィアの人々はローマ帝国から金銀を略奪して持ち帰るようになっていた。そして、北ヨーロッパでは新たな時代が幕を開けた。ゲルマン鉄器時代である。
酸性の水と湖沼の底の堆積物により腐敗を免れた死蝋の一種。その後堆積物が泥炭層を形成して地上に露出し、その泥炭を燃料として切り出す際に発見されるケースが多い。
ゲルマン鉄器時代
ローマ帝国の衰退期以降の時代は、ゲルマン鉄器時代として知られている。 ゲルマン鉄器時代は前期と後期とに分けることができ、後期 (550 - 800年) はスウェーデンでは通常ヴェンデル期1と呼ぶ。
前期ゲルマン鉄器時代はデーン人が歴史に姿を現す時代である。デーン人は、ヨルダネスによれば、スウェーア族の系統らしい。
ローマ帝国の衰退期には、スカンディナヴィアに大量の金が流入していたため、スカンディナヴィアではすばらしい金工芸品が見られる。この時代の金工芸品に剣の鞘の細工やブラクテアート2などもあるが、傑出したものに黄金の角がある。
ローマ滅亡後は金が希少になったため、青銅に金をめっきした物が見られるようになる。また装飾も、前期ゲルマン鉄器時代には動物も写実的に表現されていたが,後期になると様式が変化し、手足を絡み合わせた複雑な形で動物があしらわれるようになっていった。
メーラレン湖へ注ぐフーリュス川東岸に12基あるヴェンデル船葬墓群に由来する。ここから副葬品として武器、兜、服飾品や埋葬された者の使った日常品が大量に出土した。
片面に文様の入ったメダル状のペンダント。
ヴァイキングの時代
ヴァイキングの時代は793年から1066年のスカンディナヴィアの時代の名称である。 これは初期鉄器時代の後半期と一致する。この時代、ヴァイキング(スカンディナヴィアの戦士であり商人でもある)が勃興し、植民、探検をヨーロッパ、中東、北アフリカの広範囲に展開した。そして彼らは北アメリカ、より特定すれば現在ニューファウンドランドと呼ばれる地域にも達している。
ヴァイキングの時代の始まりは通常793年とされる。このとき、ヴァイキングはブリテン島の重要な修道院・リンデスファーン修道院を略奪した。その終わりは1066年のハーラル3世によって試みられたイングランド侵略の失敗とノルマンコンクエストとされる。
移住の時代
移住の時代は紀元800年代に始まった。ヴァイキングは次のような地域を侵略し、移住した。イングランド、グリーンランド、フェロー諸島、アイスランド、アイルランド、リヴォニア、ノルマンディー、シェットランド諸島、シチリア島、ルーシ、ヴィンランドなどである。
スウェーデンの移住者はほとんど、現在のロシア、リヴォニアと他の東方地域に移住した。ノルウェーとデンマークの移住者が始めに西方と北ヨーロッパに移住した。 これらの東方からのスカンディナヴィア人移民はヴァラン人(væringjar, 「ののしる人たち」)として知られ、最古のスラヴ人の記録によれば、これらヴァラン人がキエフ・ルーシを建国した。この東方ヨーロッパの大国はモンゴル帝国のヨーロッパ侵略に最初に遭遇し征服された。
西方へと導かれた戦士たちは「ヴァイキング」として知られ、フランスのノルマンディー、イングランドとアイルランドに大きな文化的足跡を残した。アイルランドの首都ダブリンはヴァイキングの侵略者によって建設された。アイスランドには800年代に最初の移民がなされた。
アイスランド人のレイフ・エイリクソンは大きな業績をヴァイキングとスカンディナヴィアの歴史のこした。彼は最初に北アメリカに到達したヨーロッパ人の一人になったからである。 エイリクソンは大西洋を帆走し、ニューファンドランド島に上陸し、この地域をヴィンランドと命名した。
しかし、彼は一層西方の地域への恒久的植民にほとんど関心を示さなかったし、その代わりに、北の神殿の名のもとに近くのグリーンランドへの移住を主張し、アメリカ大陸本土を視認する代わりに、ここでの共同体の建設を推し進めた。
ニューファンドランドのヴァイキングの存在の証拠は、ヴァイキングの遺品と移住の痕跡の発見によって証明された。考古学者の合同チームはルーン文字の遺物を発掘したあと、1960年にはランス・オ・メドーでヴァイキングの村落を発見した。
ヴァイキングによるグリーンランドへの航海の緩やかな成功は島々の人口の当初の核を形成したが、移民は低調なままであった。ヴァイキングは後にヴィンランドもグリーンランドも放棄し、イヌイットと他のカナダ本土の固有の人々が居住するようになった。
ヴァイキングたちはこれらの植民を彼ら自身のホームランドの派生だと考えていたが、植民先が異世界であるという認識は移住先の先住民との相互の影響の後に生じた。
ヴァイキングによるアメリカ大陸の植民地化
アイスランドの歴史
グリーンランドの歴史
キリスト教化
ヴァイキングの信仰は北欧神話と深く結びついていた。彼らの宗教は戦いに重きをおき、戦死者の魂は神話の館ヴァルハラに迎えられる栄誉に浴するものと信じられていた。
スカンディナビアのキリスト教化はヨーロッパ主要部よりも遅れた。デンマークではハラルド青歯王が980年頃にキリスト教を国教とした。
ノルウェーではオーラヴ1世(在位:995年-1000年) とオーラヴ2世 (在位:1015年-1030年) の治世に始まった。オーラヴ1世とオーラヴ2世は国外へ遠征した際に洗礼を受けキリスト教に改宗していた。オーラヴ2世はイングランドの宣教師を自国に招きキリスト教の普及に尽力した。ノルウェーの異教からキリスト教への移行はほとんどイングランドの宣教師によって成されたものだった。王の洗礼とそれに続く国によるキリスト教化の政策により、伝統的なシャーマニズムは時代に取り残され、迫害の対象になった。スカンディナヴィア古来の伝統に則った祭り事(seid)を執り行う祭司(Völva)たちは、11世紀から12世紀に興隆した新たなキリスト教を信奉する為政者たちによって処刑されるか追放される憂き目にあった。
アイスランドは1000年にノルウェーからの圧力でキリスト教化した。施設の破壊を伴う強行な布教は住民達に退けられたが、穏健な形での布教は受け入れられ島内にキリスト教徒と異教徒の派閥が発生したため、王を頂かず合議制によって独立を維持するアイスランドの「共同体」としての国家運営に宗教問題は支障をきたす恐れが有った。そこでゴジ(Goði:首長)の一人リョーサンヴァトンのソルゲイル・ソルケルスソンに判断が委ねられた。彼自身は異教徒であったがキリスト教徒との付き合いも多く、中立的な見解を示されると期待されたからである。そしてソルケルスソンは全島民は改宗すべきであるという決断を下した。しかし古き信仰にまつわる慣習については、目に触れない範囲であれば行ってもよい(但し見つかって「訴えられれば」処罰される)旨も取り決めの中に含まれていた。[1]
スウェーデンのキリスト教化には更なる時間を要した。古来の慣習に則った宗教行事は11世紀の終わり頃まで地方の共同体で普通に行われ続けていた。1066年、短い期間で終息した内戦により、初めて国内における古来の宗教を執り行う勢力とキリスト教を支持する勢力の対立が浮き彫りになった。12世紀中頃にキリスト教勢力は大勝利をおさめ、1164年、異教の中心地ガムラ・ウプサラにのちにウプサラ大司教座に発展する教会を建設した。[2]
スカンディナヴィアのキリスト教化はヴァイキングの時代の終わりとほぼ同時であった。 キリスト教の適応はヴァイキングの共同体をヨーロッパ大陸の一層大きな宗教的、文化的枠組みへと吸収する助けとなった。
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